1983年(昭和58年)8月 能登半島ツーリング(カワサキZ2)

注:これを書いたのは2010年5月です。
なるべく当時を思い出しながら忠実に再現したけど、記憶違いの場面もあるかも。
あしからず・・・・
写真はネガスキャナで読んだもの。

まえがき

1983年の夏、初めて鈴鹿8時間耐久レース(三重県)を見に行くことに。
その8耐の帰り道、ソロでう〜んと遠回りをして帰る考えが浮かぶ。
行き先は、何となく能登半島に決める。
旅の相棒は、涙・涙の限定解除試験にパスして手に入れたカワサキ750RS
通称(と言うか型式名)Z2。「10代のうちにナナハンに乗る!」と言う夢を叶えた。
上野バイク街で、7年落ちS50年(1975年)式(Z2A)を車検2年付き30万ほどで購入。
下取りは前車Z400FXを15万くらいで取ってもらった。

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1983年7月28日 横浜からスズカ、そして8耐観戦
1983年(昭和58年)8月1日 鈴鹿からソロスタート 東尋坊へ(鈴鹿〜福井県・東尋坊)
1983年(昭和58年)8月2日 東尋坊から能登半島へ (東尋坊〜能登半島・穴水)
1983年(昭和58年)8月3日 移動距離50キロ??(能登半島・穴水〜禄剛崎)
1983年(昭和58年)8月4日 今日の移動も50キロ??(能登半島・禄剛崎〜輪島)
1983年(昭和58年)8月5日 ついに能登を離れる日が来た (能登半島・輪島〜糸魚川〜長野・安曇野)
1983年(昭和58年)8月6日 ライダーのバイブル (長野・安曇野〜別所温泉〜小諸)
1983年(昭和58年)8月7日 帰路に着く (長野・小諸〜横浜)
あとがき( YHの衰退とか)

1983年7月28日 横浜からスズカ、そして8耐観戦

当時住んでいた横浜の寮から鈴鹿に向けて出発、梅雨明け炎天下の国道1号線をひたすらに走る。
もちろんボンビーなので東名なんぞ使わない、いや正確には使えない、か。
国道1号各所にあった有料バイパスさえ、節約のため使わなかった。

浜名湖の辺りで休憩
新幹線が時代を感じさせるね
道路の速度制限のペイントも「40 高・中」なんて書いてある。
向こうに見えるは憧れの浜名大橋(有料・笑)

真夏の耐久レース、まあレーサーがいちばん大変なのは当たり前だけど、
鈴鹿までの道のりや、観戦する側もまた体力的に大変なイベントであった。
結構ぶっ倒れる人がいて、救急車が出入りするのを見たな。
多分脱水か、今で言う熱中症でしょう。

1983年7月31日に8耐決勝を見て、その晩もサーキット内キャンプ場の自設テントに泊まる。

1983年(昭和58年)8月1日 鈴鹿からソロスター東尋坊へ(鈴鹿福井県東尋坊)

夕べは8耐決勝の余韻に浸り、夜遅くまで熱く語っていたかも。
8耐の終わったあとは六甲でバイクの事故が増える」なーんて言われていたな。
朝はゆっくり起きて支度をして、観戦者から旅人に変身するんだ。
一緒に観戦した仲間と別れ、ひとりで北陸を目指す。
夏シーズン真っ盛りなので、とりあえず東尋坊ユースホステル(以下→YH)を事前に予約してある。
東尋坊YH以降は予約なしなので適当に。

天気はあいにく小雨模様で、合羽を着たり脱いだり。
真夏なので合羽を着ると蒸れて暑くてタマランねー

途中、関が原から琵琶湖わきを通り、いよいよ日本海側に出て越前岬に寄る。

越前岬にいたテキ屋のオッチャンに写真を撮ってもらう。
ちょっと強面の人だが「お兄ちゃん、今晩泊まる所あるんか?」とか気遣いしてくれる。
しかし、「宿は予約してあるから遠慮します」と言って断った。

東尋坊YHにはライダーがかなりの数いたなあ・・
旅とバイク談義で大いに盛り上がる。

東尋坊YHに宿泊

注:「東尋坊YH」は閉館したらしい

本日の走行過程 マップはマピオンさん


1983年(昭和58年)8月2日 東尋坊から能登半島へ (東尋坊能登半島・穴水)

東尋坊YHの前で

同宿のソロライダーたちはなぜかほとんど次に「能登かつら崎YH」を目指すという。
「じゃあ俺も」という事でそのYHに電話で予約を入れる。

それぞれ好きなルートで「能登かつら崎YH」を目指す。
俺はなんとなく気が合う、XL125に乗る現役東工大生H君と一緒にトコトコ走る。
このH君とは3日間くらい一緒に走った。

自殺の名所という不名誉で名を馳せた東尋坊に立ち寄る。

国道8号線は走らず、金沢にも寄らず海沿いの道をひたすら能登を目指す。
125のトレール車と一緒なのでノンビリとね。

能登かつら崎YHに到着、ここは海のすぐそばに建ち、
漁師さんがペアレントをやっていたかもしれない。
ミーティングはペアレントさん中心にヘルパーが盛り上げ、楽しかったな。

能登かつら崎YHに泊

注:「能登かつら崎YH」は閉館したそうだ

追加情報:2015年に復活したそうです

本日の走行過程  

1983年(昭和58年)8月3日 移動距離50キロ??(能登半島・穴水〜禄剛崎)

朝はユース恒例、写真を撮り合ったり。

赤い服の女の子は何故かこのバイクをいたくお気に入りで、
「乗せて」とせがまれて町内を一周する。

同宿の鉄道組=女子たちを駅まで見送る。


おちゃらけ楽しい奴らばっかり!!

ボーイスカウト風?の元気な子達!

「写真撮ってー!!」なんてせがまれて。

列車が到着、鉄道組とお別れです。

国鉄時代の能登線甲駅(かぶとえき)

見送りのあとはライダー5〜6人で「泳ぎに行こう」という話になり、
「立戸の浜海水浴場」にて海水浴を楽しむ。
夏なのでみんな水着持ってきてるんだね・・・俺もだけど。
宿を予約してない人たちで、「今晩どこかでキャンプしようぜ」という話になり、
取りあえず能登半島の先端に行こうと言うことで移動です。

見附島、いわゆる軍艦島ですね、いい写真なかった・・

能登半島の先端、禄剛崎近くのキャンプ場(狼煙キャンプ場?)に行ってみて
海岸がきれいだったのでそこに決定、男3人でテントを各自設営する。

砂浜のキャンプ場(と言うか、ただの砂浜!)

キャンプ場の管理人さんが気の良い人で、魚を突くヤスと水中眼鏡を貸してくれたので
今晩のおかずを捕りに海に潜る。
それなりに捕れてイイおかずになった。

注:のどかな時代の話ですのであしからず。

夜、すぐ近くの禄剛崎YHに泊まっている鉄道&バス組の女の子たちが
差し入れを持ってきてくれて感激したなあ。
前日、かつら崎で同宿だった女の子たちです。
朝も差し入れ、ありがとう。

注:禄剛崎YH、今は無いそうです

狼煙キャンプ場?に泊

本日の走行過程  


1983年(昭和58年)8月4日 今日の移動も50キロ??(能登半島禄剛崎〜輪島)


すっかり旅の相棒として仲良くなった3人組で禄剛崎灯台に行く。
ここの灯台への登りが結構きつくって汗だくだよ・・・

写真を撮り合ったりして、住所を聞いておく。
「あとで写真が出来たら送るねー」←この時代のお約束ですね。
写真が無事着けば「無事に帰宅したよ」と言う意味も大いにあるな。
野郎どころか女の子に対しても「写真送るよ」と言えば住所どころか電話番号さえ教えてくれた、のどかな時代。

俺はまだ日程に余裕があるので、今日は輪島あたりに泊まる予定。
他の二人はそれぞれの目的地を目指すので、もうお別れだ。
なんだかんだで3日間くらいツルんだかも。

分かれ道で一人別れ、そしてもう一人と別れ、俺一人になった。
ホーンを鳴らして手を思いっきり振って別れた。
「気をつけて走れよー」
「無事に家までちゃんと帰れよー」
バイク乗り同士、心に思うことは同じである。

何日も大騒ぎしながら過ごしたので、急に一人になったらなぜか泣けてきた。
涙で前が見えない・・・・

「またソロに戻っただけじゃん・・・」

ちょっとセンチになりながらZ2を走らせる・・・

輪島のお寺のユース「長楽寺YH」になんとか泊めてもらうことになった。
「満員なんですよー」と断られても、
「布団部屋でも廊下でも良いですから」と当時の決め台詞でOKを貰う。

輪島長楽寺YHに泊まる

注:「輪島長楽寺YH」は閉館したそうです。

本日の走行過程

1983年(昭和58年)8月5日 ついに能登を離れる日が来た (能登半島・輪島〜糸魚川〜長野・安曇野)

輪島の朝はなんと言っても朝市。
ユース同宿の鉄道組の女子たちと連れ立って朝市に行く。
まあ観光客相手だけどそれなりに楽しい。

スーパーマンのTシャツを着た彼は、ユース玄関前のスーパーホークのオーナー。

何と能登半島で小移動しながら3泊してしまった。
名残惜しいけど能登を離れよう。
輪島から穴水、出来たばかりの能登島大橋を渡ってみたかったけど、高い通行料に断念。
七尾〜氷見〜あとは淡々と国道8号線を走る。

絶景・絶壁の地・親不知

糸魚川日本海側を離れ、国道148号を南下する。
穂高にある「あずみ野YH」に飛び込みで懇願して泊めてもらう。

このYH、バイク乗りは4人だけで、男女とも鉄道組かマイカーだ。
バイクの話で4人で盛り上がり、当時YHって禁酒だったけれど隠れて一緒に飲んだ。

同室のバイク乗り


腕に包帯巻いているいちばん右の人はツーリング途中、
ビーナスライン?で転倒してバイクだけ滑走し、
乗っていたZ400FXはガードレールの隙間から崖下に落ちてしまい、
引き上げ不可能だったけど、なんとかナンバープレートだけ回収してそのまま廃車・・・
なんとも悲惨なツーリングになってしまったけど、2ケツで旅を続けている最中らしい。
この3人組と、翌年の鈴鹿8耐でバッタリ出会う。
あの全盛期の10数万人を集めたイベントで偶然にも再会するなんてホントびっくりした。

あずみ野YH泊

注:「あずみ野YH」は名前を「安曇野パストラルユースホステル」に変えたらしい。
パストラルってなんじゃろか?

本日の走行過程


1983年(昭和58年)8月6日 ライダーのバイブル (長野・安曇野別所温泉〜小諸)

ユース恒例の朝の出発前の集合写真

安曇野と言う場所は女の子に人気があったんだねー
宿泊者は女の子が多かったもの。

北アルプスの壮大な壁に感動しながら次の目的地、信州に向かう。
信州にはちょっと「ある種の憧れ」が。

ツーリングに出かける前に読んだ単行本小説、
片岡義男氏の「彼のオートバイ、彼女の島」
この時代の「ライダーたちのバイブル」とまで言われた不朽の名作だ。

カワサキの650RS-W3に乗る主人公の「コオ」

カワサキの750RS-Z2に乗る俺。

コオは信州ツーリングの最中に「ミーヨ」と言う女の子と出会い、
一旦は別れたが、雨宿りで混浴の温泉に入り、そこでミーヨと再会する。

俺はと言えば、とっても晴天の信州を走り、どこか温泉でも、と思い別所温泉に入る。

・・・混浴じゃなかったけど・・・
・・・温泉出たあと夕立に降られたけど・・・

別所温泉からなんとなく小諸に行き、「小諸YH」に飛び込みでお願いする。
「本当に満杯なのよおー」とすまなさそうに言うペアレントさんに懇願して(こればっかり)
「どこでも雨露しのげるならば」で、本当に廊下に泊まったかも布団部屋だったかも(笑

夜、同宿のチャリダー(自転車ツーリスト)が語る。
「ボク、途中でよく知らずに入った温泉が混浴だったんだけど、
そのとき一緒だった娘がこのユースに泊まっているの。どうしよう・・・
ばっちり見えちゃったんだけど、全然恥ずかしがらなくてコッチの方が&%#$`HG;5,$'&$'・・」

・・・・・・・・

その後ふたりはどうなったか知りません。

小諸YH泊

本日の走行過程


1983年(昭和58年)8月7日 帰路に着く (長野・小諸〜横浜)

小諸YHのヘルパーさんと。

浅間山をバックに(全然見えないけど)

無事に帰りついた。

本日の走行過程

全走行過程

使用したカメラ:ペンタックスMEスーパー

あとがき( YHの衰退とか)

数週間後、旅先で知り合った人たちから写真と近況が届いて旅の余韻に浸る。
これもまた旅の楽しみ。
しかし今思えば体力あったなあ・・・と思う
あの真夏の鈴鹿で4日間過ごし、そのあとロンツーだもんね。
どこに行っても同年代の若い旅人だらけでユースは大盛況。
日本全国くまなく網羅して安く泊まれて、旅の仲間がいっぱいいるのがユースの魅力。
一方で厳しい規則(アルコール禁止など)に対する反発や
ミーティング(強制するところも)などが嫌で、ユースを敬遠する動きも出てきた。
いつがピークか調べてないが、だんだんとユースは低迷していくようで
廃業するユースが相次ぐ。

あんなにいた「若い旅人たち」はどこに行ったのか・・・・・
若いときこそ旅に出ようよ・・・・と年寄りの独り言でした。

最後までご覧いただき、ありがとうございます

使用したカメラ:ペンタックスMEスーパー

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